【舞台】Patch × TRUMP series 10th Anniversary『SPECTER』

f:id:landoll225:20200422225106j:image

www.youtube.com

Patch × TRUMP series 10th Anniversary『SPECTER』

いや~~~~~感想、、何から手をつけたらいいの?感想とは。最高がてんこ盛り舞台だったのですが……といったところ。何から語れば???わたくしそもそもTRUMPっていう作品でアレンという男の子がズン!て心臓に杭を穿ち今に至るみたいなスタンスでお送りしてるんですけど(大丈夫?)中山クラウスがほぼずーっと虚無の笑顔でその場その場の適切な表情を作る回路がバカになっちゃってるの可哀想でね…しくしく

トラウマスイッチが入ったときだけ人間の顔に豹変するのおっかなすぎて死んじゃった(うさぎ)クラウスをクラウスたらしめる存在は何をどうしたってアレンだけなんだな~~って。さめざめと。

神様のような存在←私は神様ではありません←でも不老不死だ←だからなんだというのです?←君が花ならよかったのに←私は花ではありません のヒリつくレスバがどうしたって人間だし、アレンを失った傷心でしばらく凪いでいたクラウスの水面が「星に手を伸ばす」の一石で大きく波紋する瞬間が無理。情緒、くちゃくちゃなる!!

ピロティホールから本多劇場になった段階でクラウスを君は!っつって指さすようになってバチバチにバケモノ扱いするようになったクラナッハが、あなたに何がわかるんですか!!!!!!ってバチギレ胸ぐら掴みされてヤッベ地雷わかんね~~反省してま〜〜すwwwwwのクレイジー野郎で爆推した。

私やっぱりTRUMPにおける「寂しい」ってすっごく重たいトリガーやんねって思う。LILIUMやSPECTERを見てより強く感じるけど、不死が権威であり羨望であり死に恐怖を抱く世界で、アレンとソフィだけは死を拒まない理由はただ寂しいから。寂しさの恐怖を知っていて尚それを埋めようとしない気高さを持ってるから。バケモノでも神様でも花でもなくてクラウスはクラウスでいたかったから自分を自分たらしめてくれるアレンが必要で…生きとし生けるものが死を迎えることをちゃんと分かってる。かなしいことが、あったんだよお…(T_T)シリーズで唯一アレンがいないよしくんの役解釈…しくしくしくしく

 

幼馴染トリオの掘り下げは個人的には再演が好き〜。カルロ、イニシアチブに逆らえずローザに手をかける瞬間笑ってるんだ。シャドならどんな手を使ってでも自分を止めてくれると確信していたから友情を信じて身を委ねられた。残酷なまでに疑わない信仰にも似た祈りに救われたカルロ。女と男と友情と愛憎が鬩ぎ合うあのシーンで幼いころのいちばん純粋な信念に従って安らかに逝く彼が最も強いダンピールだったんだと思う。カルロくん、初演は失恋のニュアンスが主になってるけど再演は妹を祝福したい気持ちと禁忌を犯したことへの複雑さとが入り混じった兄代わりのニュアンスが強い「ハリエット…」で好きです。 
守りたいものはたった一つだったはずなのに、暴走するローザを律することも村を犠牲にすることも出来ずに揺らいでたシャド。抗えなかった弱さが全部自分に跳ね返ってくるような顛末と、メインビジュアルのカルロのでけー岩(?)に比べてシャドのもうどうしようもないくらいしがらみにかられまくった蔦がほんとうに真逆で同じ村で育ってなんでこんなに…という気持ち。カテコで奇しくも御存命が確認されてしまった哀れな亡霊シャドくん…。業を背負わせたららんくん一辺倒みたいなところあるので再演ならではのハマり役でしたね。ライネスで大振りな太刀筋も斬るたびに歪んでいく顔つきもそもそもシャドは強い訳でも武力があるわけでもなくひたすら「我は守護者なり」の気持ちだけで戦ってて、弱くて優しい人が愛によって悪魔にもなれてしまうことの残忍さだけが光るよ。毎公演出るもの出し切った熱演で素晴らしかった。

考志くん自身がラジオで(小さな町で育ったから)村の閉塞感や田舎特有の同調意識に近いものはトルステンに投影したと言っていた通り、なかなかどうして初演にあった役柄の癖をきれいに削いだお芝居で魅せようとする覚悟があって。彼は彼なりに屈託していたけれどこんなに芯がある子だったのかってハッとした。岩崎くんは岩崎くんの、考志くんには考志くんの純粋さに魅力があって最期のセリフに何度も何度も「トルステン坊」だった頃を想起させられて泣いてた。葬られてく仲間の自我を目の当たりにしたトルステンにとってそれはほころびに見えてたのか、究極の自己犠牲に見えたのか。永遠なんかなくったって呪われた村で確かに笑って生きられたはずなんだよ。傍観者としてのトルステンってCOCOON月のジュリオに重なる部分もある。ウウ…

youtu.be

考志くんが本公演を振り返るのって色んな視点から多くを語るわけじゃないんだけど、吉本考志個人として素直に役について考えたことを散文的に綴るからほんと好き。小道具の裏話もあるのでみんな見てね~。 

 

オタクは勝手に初演ヒューゴが強すぎて拓哉くん難産だっただろうなぁと感じてて、難役ほど期待値を上乗せしてポテンシャル発揮する拓哉くん、東京に入ってぐっとヒューゴ今の超よかったよね!?ってなったのね。松井ヒューゴはたとえ独りになったとしてもTRUMPにならんとする孤高の王位でシルクハットのイメージなんだけど、井上ヒューゴは家臣がいてようやく虚構の玉座に座れるような、彼が彼自身に王冠をかぶせているのがそのアンバランスな虚栄心の象徴なイメージで。サトクリフ、バルトロメ、グレコが役を掴んだ経過でヒューゴがグンと魅力を増した気がしてPatchのヒールとしても真新しくて面白かった。拓哉くんの笑いの演技ってすごくいい意味で怖い。笑い声や表情そのものがというより「混濁した感情を壊れた笑いに落とし込む演技が上手い」って感じ。毎回ノームがヒューゴに石投げるとこ、拓哉くん的にはかつての自分の投擲がライネスの引金となってしまう因果にヒュッて心臓震えてた。

納谷くんのサトクリフ。ベースには常に憤怒と怯えが見え隠れしてるけれど(いい加減にしてくださいとかニャンちゃんじゃありませんよとか)自分自身を下卑た存在に見せないように必死で、抑圧と爆発を繰り返してる不安定さが良かった…。無理に品良く話そうとする口調って、弟のオズが庇護下にあったか虐待されてたかのどちらかで、兄として体裁を常に気にしてたみたいなのが背景にあったりするんかな。知らんけど。脱走前夜の「はぁ!?顔を見られたんですよ!?」が再演では冒頭にきたことで足がつくだろっていう意味に加えて「お前が顔見られちゃまずいだろって言ってたんでしょ」の意味合いも含んでたことに気づいてホォ~ってなった。人間椅子もいいよね。階級社会示唆にも通ずる純血種とダンピールの序列をあれ一発で隠喩できるの。ダリちゃんの発明やね(そう?)

事前ビジュアルが大勝利しすぎてあらゆるパターンを予想し尽されたバルトロメとグレコ、作品の中でそれぞれの抱えてる幼さと繭期の苦しさを二分にしてるのがもともとすごく好きで。同じ憂いを抱えていても受け取る器によって昇華の仕方や拗らせ方が違うから同じ道を選べるとは限らないっていうのが人間の思春期とも通じる気がして。2期生コンビの考志くん山田くんが演じた思春期の終わりを、4期生コンビの佑飛くん尾形くんがどう演じるのか楽しみだった。ステージ映え男尾形くんの体躯を存分に活かしたグレコの、歪に育った見世物小屋に居そうな見た目と、レースのワッペンついた首輪がわんこで可愛い。包帯口輪首輪にベルトで拘束具が大渋滞。イニシアチブ取られるとこで女の子座りの体制から膝立ちでグググっと起き上がるのすごかった!脚の長さも活かせてるしこんなに体幹しっかりしてたんだ!って。あれ謎に中毒性高くてだいたいグレコにいつも目がいっちゃいました。本編ではマスクで表情筋がほとんど隠れている尾形くんがカテコで仮面をかぶらずに逃げ延びたグレコとして立っている顔つきが好きだったな。

サトクリフ見なかった〜?まーいーやあんなやつどうでも…あぁあああ〜〜ごめんね刺しちゃったでも繭期だからぁしょうがないのよね!のあたりで躁と鬱の殴り合いに息が詰まりそうだった。悲鳴を上げてるときのバルトロメがたぶん本来のバルトロメなんだろうなってわたしは思ってるんだけど、感情のコントロールがうまくできないのもうなんかPMSぽい繭期症状で苦しいね、しんどいねって。無理強いはやめて。こんなの同意の上じゃなきゃダメなんだからって初演よりも女性的な情感が強めだなって思ってて、仮説だけどグランギニョルのキキがずっと躁状態にあるのも(コクーンの投与、人体実験に利用されてる恐怖心などの要因は一旦度外視して)自制できない感情の起伏を人間の思春期に置き換えたら女性が否応なく最初に突きつけられるタイミングって初潮かなと感じるのね。

バルラハから逃れて永遠の繭期を抜けたキキが受胎をして子孫を宿しただろうこととも重ね合わせるとプリンセスバルトロメが死の間際に出会ったのが「父親」と「生まれたばかりの赤児」だったことも唐突であっけない、それでも少なからずドラマチックな死であったんじゃないかなと私は思うよ。 君も壊されたいのかい?だもんね。殺すじゃなくて壊すっていう言い方ね。退屈を持て余してただ遊びたかっただけなんだもんね。

 

下手にいるとバルトロメを袈裟斬りするクラナッハの父の顔が見れて上手にいるとヒューゴを袈裟斬りする石舟の相棒の顔が見える対比ほ~~~んとに観劇の醍醐味でありえん楽しかったな~~~!石舟の表情、涙50000000リットル出た。ランサー!オカ板住人!上出来です!戦闘時お手々クイクイ!オタクの脳汁設定チョモランマ盛りな石舟先生ブチ抜けてThis is 再演キャラクターでした。初演とはハンターズの関係性がまた違う感触に見える大きな要因が萬里、と名前を呼ぶ声色のひとつひとつを大事にしている竹下くんのお芝居なのかなってすごく思った。名を与えること・誠の名を授かることがすごく重要な作品で、思いは「名前」に引き継がれているんだよってラストシーンにつながるから。石舟だけビジュアルの背景が空?なのめっちゃnoblesse obligeやんね。まあ彼のその後が希望かどうかは諸説ありなんですが(TRUMPシリーズ年表を読もう!)

個人的に松井さんの絶対殺すマンの目が好きだからヒューゴの息の根とめたくてとめたくて仕方なくてだんだん戦い方が理性の歯止めがきかずに荒っぽくなってって目の色が変わってく萬里みるの毎回ひーーーって。再演はリリーを妻っていう言い回しじゃなくて大事な人ってなってたのも松井さんの演じる萬里て感じが強かった。下川くんがノームを演じたことによって萬里とのシーンがより純粋な親子のやりとりで(パパ…)ノームも初めて年相応な顔になるの愛しくて、ロダンさんにはあんな風に素直になれなかったのだろうなと考えたら最期にロダンが遺した言葉も重みがあるというか。わたしなんぞが申し上げる必要性がないくらい松井さんの萬里はかっこよかったし全身全霊でどう考えても作品世界の枢軸、アクシズだった。「名無し」でしかなかったノームにとって、一歩村の外の世界に出れば名前には別の意味があると知った瞬間はきっと天啓だったのだろうなと思ってる。星ひとつでの焼死はある意味ではノームの本懐なんじゃないかな。喉元かっきられてようやく憧れた”萬里”になれて、ネブラ村で死ぬはずだったノームとしての魂も先祖返りして。ガ・バンリの死はもともとあってないような亡霊の死だからね。

下川くんのノームがサトクリフを刺す前に一瞬の躊躇いを置いて意を決するまでの束の間の逡巡がたまらなく悲しいから好き。体当たりしか出来なかった名無しがヴァンパイアハンターになる瞬間。ヒューゴへの投擲には一切の迷いがなくなったところまで含めて天才・下川・恭平さまなのであった。

 

以下、推しの役のこと。

推しのクラナッハはまぎれもなく蝶だったんだなと深々思う。大切な花のために転々と渡り歩いた蝶。

クラナッハが植物学者の権威をはく奪されて学会から追放されるシーン、なんか、なんていうか心の中ではあんなに絶え間無く葛藤が溢れてるのに。わたしたち(客席)は彼の人間らしさの鱗片をまざまざと垣間見ているのに。膨大な知識の額縁だけを残されてしまった彼が、他者にとっての理解の範疇や正常から逸脱してしまうことで「狂ってしまった」物悲しさがあった。わかってないな、なぁんにもわかってないという初演のセリフが省かれた分、心の奥底ですらそんな言葉もかけてやれないくらい「馬鹿なやつらのせいで」と大きな瞳に野望と混沌を交互に映す清濁が、若くして失脚した天才なんだなって思った。

亨くんのお芝居はそれまで0か100かみたいな、ともすれば間の引き出しが少なくてその爆発力が印象に残りやすい良さでもあったけどクラナッハを演じる中で人間のグレーな部分というか白と黒がちゃんと混ざった感情をしっかり出せるようになっててすごい。どの口が言うてんのて怒られが発生するけど上手くなった…ってくちゃくちゃに泣いちゃった。今もこれ打ちながら泣いてる。したことなかったアプローチの役作りだっただろうし、ある程度役柄のイメージが付いていて余計に高いハードルがあって。本人もすごく悩んだことをブログで触れていたけど、変な人だなって外側からじっと見つめてた亨くんがだんだん照準を合わせてクラナッハの内側から世界を見てるようなお芝居に変わっていったのが見ていてゾクゾク、ワクワクしたし何よりも圧倒された。

クラウスの血を採取するとこ、初演ナッハが何回も「生きてる人の息の根を止める」ために切るのと再演ナッハが深めにいくのに役解釈の違いが表されてて。剣を深く持ち替えて抉るように切ったあとに血を土にならしてるのも全てが合理的でほんとうに…研究のために何度となく繰り返す中でそうなっていったのかと思うとほんとうに………(失語)折り返し過ぎたくらいの公演で高ぶった感情におかしくなってて不気味ですごい良かったのあの回。ほんとうになぁ…

「気持ち悪い」ことに人間は惹かれるのよ。「引っかかり」も「釈然としない」も「気持ち悪い」もアタシの場合褒め言葉なのよ。

「気持ち悪さ」は、自分の中の葛藤とか慟哭をそのまま表現した時に見えてくる。

これは大好きなマツコ・デラックスさんの言葉です。

さなぎが蝶になる過程がそう呼ばれるように、世にいう変態と言われる人々もそうなのかもしれないと思う。創作活動をする人、何かになろうとあがいている人、標準的なものから変異しようとしている人。精神性や行動が突飛な人は過程だけを切り取ったら変人・狂人と揶揄されてしまう。理解の外側にいる人は孤独だ。生きた証を残そうとしたクラナッハもそう。

なんか…なんかな自分が注いだ愛を物言わず美しく咲くことで返してくれるお花たちだけが唯一信じられる存在で、心の拠り所だった或る庭師の物語なんだよな。想像にすぎないけれどクラナッハって人と関わりを持つ経験を得る前に非凡なまでの聡明さや世界を読解する回路が「普通」とはかけ離れていて、言語を介する必要がない花と自分の世界に没入していってしまったような感じ。花の名前の呼び方も竹下クラナッハは"点呼"をしてウチの子を紹介します感だったけど田中クラナッハのは携帯に残したままにしてる元カノの名前みたいで…彼にとって愛とは執着なんだなってなんとなく。

 

田中クラナッハと齋藤ハリエットは実年齢がグッと下がることもあって禁忌を禁忌とも思わずに愛とはなにかもわからない若さがリアルだった。2人ともなんでこうなったのかあまり自分でもわかってなくて、それがゆえにハリエットが母になった時の表情が宗教画のように美しかったんだよね。 身を呈して子供を産んでくれた彼女を失ってはじめて蝶から人になっていく”変態”は本当に 本当に望んだ通りのクラナッハだった。あ、なんだ人間にもちゃんと愛着を持てるんだ。え、でも死んじゃったんだけどどうしよう?ってなって「どう悲しんだらいいのかわからないんです」がもう…もうさぁ……もう…私もわからないんです!バルトロメの攻撃を避けて倒れるたびに腕の中を覗きこむ顔がはちゃめちゃに父親で新生児に触れるだけでも未知だっただろうに、力加減もきっとわからないだろうに一心不乱に抱えて走ってロダンやハリエットに託された命を守るあの猛攻は慈愛がなければ生まれないはずだから表し方を知らなかっただけでたくさんたくさん傷ついてきた人なんだろうなって、尽くしてきた真心が一輪の百合の花になったんだなと心から思ったよ

大千秋楽の、抱きかかえることすらおぼつかなかったソフィをせめて覆い隠してあげるみたいに被さった最期を忘れることはきっとないですこの先も。「あの百合の花のように美しい」って初日の方だけ言ってたの好きだったからなくなっちゃって寂しかった。散り際には衣服からふわりとお花の香りがして生まれたばかりのソフィが腕の中で大事に守られていたことをいつか後のガ・バンリが知ることになるのね。ビーーーーーーー(大泣き)

 

クラナッハを生きてくれる世界線にこれてよかったと安堵する私にこのあと更に壮絶な繭期が待ち構えているのであった。

次回『繭から蝶へ〜COCOON月の翳り編〜』へ続く!To be continued…